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ちょっと歴史のおさらいです

読売新聞の記事でした。
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赤線は私が引いたものです。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」、信長、秀吉、家康といえばこの「ホトトギス」の喩えがよく知られています。
この記事での譬えも面白いですね。
電話という現代機器を扱っているだけにいっそうリアルに人物像が浮かんでくるようです。
特に家康の譬えは絶妙、家康という人物の裏の裏まで見えるようで笑ってしまいます。

さらに、驚いたのは、「脇坂安治」なる人物の名前があったこと。
「あ~、あの男か」と奇妙な懐かしさで思い出していました。

脇坂安治、文中にもあるように秀吉子飼の武将です。
豊臣側と徳川側の戦い、あの天下分け目の関ヶ原の合戦ににも参戦している。
もちろん、豊臣方、石田三成指揮下での出陣です。
関ヶ原では、小川祐忠、赤座吉家、朽木元綱といった小大名ともども殆ど目立たない場所に陣取りました。
そして、これまた目立たないようにじっとして動かない。
要するに、この4人、出陣はしたものの最初から戦う気などまったくなかったのです。

やがて、戦いも終盤になって徳川方の勝利が明らかになってくる。
そこで、彼らは初めて動き出し、味方を裏切って敵に寝返る。
つまり、この4人は、関ヶ原の裏切り組として歴史に名を留めているのですが、
4人のうち何故か脇坂安治だけが戦いのあとに家康から褒美をもらっている。
他の仲間が、戦後、領地など家康によって没収されたにも関わらず、脇坂安治だけは
2万石もの加増があったのです。

「なぜ脇坂だけが・・・・?」、多くの者が不審に思ったようでした。
けれども、その理由はいたって単純です。関ヶ原合戦の前に脇坂安治はすでに家康に内通していたのでした。
もしも両軍が戦うようなことになった場合には徳川どのに内応しますという申し入れがしてあったのです。
脇坂安治にはこんな周到さがあった。

とはいえ、もともとはさしたる功績もない武将です。
常に抜け目なく、要領よく立ち回るというほどには才気があるわけでもなく、
武将らしい目立った活躍があったわけでもない。
それが、偶々ながらの関ヶ原合戦での出来事が功を奏して、この脇坂安治の家は、
江戸期を通して、さらには明治にいたるまで続くのです。
勇敢に活躍した武将達が、その後、徳川の時代になってお家とり潰しになっているというのに、何とも不可思議なこと。

つくずくと歴史というものの不条理、皮相な一面をみるようで、ちょっと綴ってみました。
こうして文章にしてみると頭の整理にもなり、自分の学習にもなるのですね。
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過日、東御苑散策、そのときの写真です。

梅林坂の梅は満開になっていました。
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メジロ、いましたよ~。
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河津桜、寒桜が咲いていました。
寒桜はもう花びらを散らしていました。
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桜にもメジロがきていました。
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by suirenn2 | 2016-02-17 12:31


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